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わかるということ

  • 執筆者の写真: YOKO
    YOKO
  • 2024年6月27日
  • 読了時間: 4分



「ママ、わかったの!」

もう亡くなって10年以上経つ母の口癖。「今日、すごいことがわかったんだから!新しいことがわかるって嬉しいね~今日はいい日だ~」母の声が脳内で再生される。普通、家庭でそう頻繁に聞くようなことではないと思われるが、母はしょっちゅう言っていた。


 私の母は音大の声楽科を出ていて、母も同じく、音楽教室でピアノや歌を教え、晩年まで自身の歌のコンサートも定期的に行っていた。大病をし、大手術の後3日間目覚めず、ようやく目覚めた日に、朦朧としながら「次の演奏会の構成を考えていたの」と言ったくらい、彼女の人生は音楽と共にあった。


私が幼い頃には音楽家にさせるために、3歳からバレエ、4歳からピアノのお稽古、ソルフェージュに歌のレッスンと、完全に音楽家へのレールを敷いた。それに関しては弊害が大きく、それが良かったなどとは決して言えない。苦節何十年、これまでのその英才教育による弊害と戦いながら今日の自分がいる。その弊害があったからこそ、コダーイ・アプローチにたどり着いたともいえるが、それまでの道のりは本当に辛いものだった。


よく「それでも今のあなたがあるのはお母さんが小さい時から英才教育を頑張ったからでしょう?」と言われるのだが、全くそうではないと断言する。


母が私の隣でみっちりお稽古に付き添ったのは3歳のバレエの時から始まり、ピアノが始まってからは毎日、小学校3年生まで続いた。しかし、3年生のある日、突然「今日から一人で練習しなさい」とレッスン室に放り込まれた。

それまで、娘を素晴らしいピアニストにしたいがために、週に一度、遠く離れた偉い先生の家まで通い、母が先生の教えをメモに取り、自宅でみっちり私のレッスンをする。私は辛くて、大人の言葉に耳を塞いだ。どうしたら早くレッスンが終わるか?終わらせるためには相手の要求に答えなければ終わらない。内容なんかわからないけど、とにかく勘ばかりが発達していく。その勘が外れたら最後、私は涙に暮れながらレッスンを続けなければならない。お互いに疲弊していく中、母は気づいたのだ。母がしていることは母の願望であり、娘のレッスンという名の自分のレッスンだと。


その日を境に、母は急転換、彼女自身の為に時間を使うようになった。私は練習の仕方も分からず途方に暮れた。毎日、ピアノの前に座って何をして時間をつぶそうか?と考える。窓に凍り付いた霜や、壁紙などをじーっとみていると人や動物の形が浮き上がってくる。空想しながら時間が経つのをひたすら待つのである。ある時は、母の目を盗んで漫画を持ち込んだり…と無駄な時間をどれだけ費やしたかわからない。

母は…と言えば、私に向けた計り知れないエネルギーを自分自身に向けたかと思うと、全て結果を残していくのである。文章を書けば入選する。油絵を描けば賞を取り、歌のコンクールでは入賞し、それを横目に、私は母の失敗作だと思わされるのである。親の力で出来ていたことが途端に出来なくなっていく。これまであった根拠の無い自信が崩れ、虚栄心だけが残った。それを自覚するまで、そして自覚してから‥と、それはとても辛い時だったと今振り返って思う。


この件に関しては語ることは山ほどあるが、私が自立できたのは、母の押しつけがましい英才教育などではなく、母自身が自分のために前に進む姿を見せたことだろうと思う。

幼少の時の大きなトラウマを抱え、教育法の悪例を身を持って経験した結果、今子どもの教育、そして、音楽教育に関わる仕事をしている。

これは何度も言うが、母の英才教育あっての結果ではない。母が、様々なことを学び実現していく姿を見た結果である。もし、あの時、母がレッスンを止めずにいたらお互いに崩壊していたであろう。


母の物事への取り組み方、学ぶ姿は、いつも真剣。徹底的にのめり込んでいく。そして、新な発見があると、目を輝かせて「ママ、今日わかったの!」「わかるって嬉しいことだね~」「ありがたいねぇ」と私に報告するのだ。

私が母に感謝するのは、そうした姿勢を見せてくれたことだ。

勿論、玉砕して、がっかりする姿も沢山見てきた。しかし、ある時から、お互いに音楽の難しさ、素晴らしさを語り、互いの本番を見守り、慰め、喜び、私たちは長らく同志だった。

母亡き後、私が新たな発見をした時、母の声が聞こえてくる。「ママ、今日わかったの!」

それを娘に言ってみる。「よかったね~」のんきに笑いながら答えてくれる娘。いつか、彼女もこの言葉を喜びをもって言う時が来るだろう。そんな日を微かに想像しながら、私は自分のやるべきことに向かい続けようと思う。





 
 
 

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